僕らの恋愛事情

「やめろ!な、何すんだよっ」
ボカッ
「うぐっ」
世の中にはどんなに美形でもメイク栄えしない人と、美形でなくともメイクをしたらたちまち誰もが振り返るよう
な美女に変身してしまう、そんな男がいるものだ。


五月下旬、空は晴れて心地よい暖かさの中、閑静な住宅街に断末魔の叫びが上がる。
「あーーーー!な、何だよこれはっっ!」
白い壁にオレンジ色の瓦屋根のかわいい、たいして広くもない家のリビングで中田義文は絶叫した。
「何で俺がこんな格好しなきゃなんねーんだよっ!ふざけんなよっっ!」
「約束を守らなかったあんたが悪い!」
義文の姉、中田美幸はリビングのソファーに座り、足を組んでふんぞり返って言った。
がに股で叫んでいる義文の格好はというと、
ブーツカットで裾の広がっている色の薄いジーンズに、白いタートルニットのノースリーブ、頭にはマッシュルー
ム型のベージュのキャップを被っている。
それだけならまだ我慢できるのだが…
「いーじゃない、女の子みたいでかわいいわよ~凄~く」
姉美幸は義文の頬に手を沿えて甘くささやいた。
平凡な顔立ちをした義文とは違って目もとすっきり茶系の口紅が似合う知的美人な美幸は近くで見るととても迫力
があった。
「お・れ・は、男なんだよっ!この服だけならまだ我慢できる…」
義文は自分の胸を手で掴み
「なんで男の俺が胸にブラつけて、パッドまでしなきゃなんねーんだよ!何で化粧までしなきゃなんねーんだよっ
っ!脇毛剃んなよっ!すげー寒いっっ!!」
絶叫し終わった後、美幸の目が細まった。
「さっきも言ったようだけど約束を守らなかったあんたが悪いの!何よ、あの期末の点数達はっ!?」
「あう…」
義文は俯いた。
そう、何故義文が女装をするはめになったのかというと…
時は五月下旬にさかのぼる。
「義文ーーーっっ!あんたこの成績は何なのよっ!?」
閑静な住宅街の中、道路までその声は響いた。
「いや、その…」
リビングのソファーに座る姉美幸の前で義文はしどろもどろになって言う。
「範囲外の所がでてきたから…」
ソファーと対のミニテーブルに置かれた中間テストの答案用紙をちらっとみる。
「そんなの言い訳にもなんない。全教科平均点が47点だなんてあんたいい度胸してるねぇ」
美幸に極道の妻ばりにすごまれて、実はテストの前の晩までゲームをしてたんです、とは死んでも言えない。
「あんた今年の二月まで受験勉強してたんでしょ!?なのに何なのよ、このザマは」
「まあまあ、その辺にしておきなさい美幸」
俯いている弟に向かって怒鳴る美幸に母美佐子は横から助け船をだした。
「お母さんはこいつに甘すぎんのよ!」
実の弟に向かい散々な言い方だが、そう言うだけあって美幸は県内でも偏差値が高くて有名な県立星陵高校を主席
で卒業し、都内の有名国立大学の英文科に一発合格しているのだ。
姉にならい、同じく偏差値の高い星陵高校を受験してぎりぎりで合格し、中間テストで赤点を連発して出した義文
は当然何も言い返せなかった。
正直つい最近まで受験勉強をしていたから中間テストの勉強などしなくても大丈夫だと思ったのだ。
そして義文はテスト前日の晩まで大好きなシューティングゲームに明け暮れていた。しかし志望校の受験と滑り止
め校の受験が終わったという名目で三月の春休みをめいっぱい遊んで過ごした義文には甘い誤算でしかなかった。
「私はあんたの将来が不安なの。このままだとろくな大人にならないわよ」
勉強や学歴がすべてだとは言わないが、弟にはある程度の知識を身に付けてそれなりの大学に進んで欲しいと思っ
ている美幸はある提案をした。
ゲームが大好きで、勉強に身がはいらない弟が自主的に勉強せざるを得ない、恐ろしい提案を…。
それがうららかな日曜の朝に起こった騒ぎの発端なのだ。

“次の期末テストで赤点を一教科でも取ったら女装して街のケーキ屋でケーキを買ってくる事。”
「大体が無茶苦茶なんだよっ。期末で赤点出すなとか女装しろとか、尋常じゃねーよ!」
義文は嘆いた。
「へ~、期末で赤出さないのが尋常じゃないんだ~?」
美幸の背後からは悪魔のような気配が感じられた。義文の背筋は凍る
「いえ、尋常です…。すべて俺が悪いです」
「わかればよろしい。」
今姉に口答えしたらこの上更に何をされるか分からないので、義文は姉の言う通りにする事にした。
「あんたおバカさんだけど一つだけ特技と言えるものを見つけたわ」
「はぁ?」
「それはね、女装よっっ!」
「はあぁっ!?」
「さぁ行ってらっしゃい!そして多いにナンパされてくるのよ~」
そう言うなり美幸は義文を玄関へ連れていき、買ってくるケーキの名前が書かれているメモとお金を渡して、外へ
と押し出してドアを閉めた。
「おい!何がナンパだよ!?俺はケーキ買ってくるだけだろ!?」
更にノルマを追加しようとする姉に、義文は憤慨する
「ケーキは渡したメモに書いてあるから~。よろしくね~」
閉められたドアの向こうから、くぐもった美幸の陽気な声が聞こえた。
それが義文を余計いら立たせた。
「くそっ人事だと思って!これじゃ生き恥だっ!侮辱だちくしょーっっ!」
けれどいつまでも憤っているわけにもいかず、とりあえず落ち着いてから駅前の繁華街へ行くことにした。

「はぁ~、まさか本当に女装するはめになるとはな~…」
自宅から歩いて十五分程の所に駅通りの繁華街がある。
うなだれながらとぼとぼと歩く義文。
「とりあえず中学の連中と高校のクラスの奴等に会わないようにしなきゃなー。」
義文の家は学校から駅三つ分の所にあって、快速電車が停車する大きい駅でもあるので、人の出入りが多い。気を
つけてないと、どこで知り合いに会うか分からないので十分に危険だ。
地元駅なだけに安心して歩けないのがつらい。
テストで赤点を取ることがこんなにも恐ろしい事なんだと身をもって知った義文は、涙ぐみながら晴れ渡った初夏
の空を仰ぎ見た。


赤レンガのようなタイルの敷かれた駅通りの繁華街に着くと、義文はなるべく顔を見られないように下を向いて歩
いた。
目的のケーキ屋は駅についているデパートのお菓子売り場に行かなければならない。そして生まれて初めて着けら
れたブラジャーはとても胸を締め付け、息苦しい。脇毛を剃られた脇の下はノースリーブのニットによって晒され
て、季節は五月下旬の晴れであろうとすーすーと風が通ってとても寒い。下を向いて歩いているのになぜか視線が
痛い。
「ちょっとあの子…」
などというひそひそ声が心なしか聞こえる。
…そんなに俺は変なのか…
顔を真っ赤にしながら心の中で涙を流し、周囲の視線に耐えきれなくなった義文はダッシュしてデパートへ向かっ
た。嫌々女装をしている義文にはまさに生き地獄だった。
デパートに着くなりそそくさとお菓子売り場へ行き、美幸に渡されたメモに書いてあるケーキを買う。
目的を果たしてしまうと重かった心は心なしか軽くなり、屈辱感はさほど感じなくなった。
義文は、さぁ家に帰ろうっと、とらんらんとデパートを出て駅通りを歩いた。歩いているといつも学校の帰りに行
っているゲームセンターが目に入る。
義文の目尻が若干さがる。
「ちょっとだけやって行こっかな」
大好きで大好きで仕方がないゲームをまのあたりにして、もはや自分がどんな格好をしているのか忘れていた。
誘われるようにゲームセンターに義文が入ろうとすると、
「ねえねえ、これからさ、俺等と遊ばねえ?」
義文の肩へ手が置かれ、声を掛けられた。
「はぁ?」
振り返ると普段は縁のない、今どきのB系の男が二人立っていた。
(お、俺か…?)
自分の肩に手を置かれて見つめられている以上自分しかいないのだが…
「俺、用があるから…」
義文は心臓をばくばくさせ、男達の傍を通りそそくさと逃げ出した。
「あ、おい」
男たちに呼び止められるが逃げる。とにかく逃げる。
ケーキがあるため走れないのが口惜しい。早歩きをして義文は駅通りを抜ける。
その間にも、
「どこ行くの~?一緒に遊ぼうよー。」
「お茶でもしませんか?」
「化粧品のアンケートをお願いします。」
「あなたの幸せを祈らせて下さい。」
などなど様々な人に声を掛けられた。
「女になるって恐ろしいっ!女になるって恐ろしいっ!」
義文は歩きながら女装をすることへの恐怖を前以上に感じたのだった。
と、その時正面に鈍い衝撃が走った。
どんっ
ガッチャン
「って~」
義文は勢いよく尻もちをついた。
「すみませんっ大丈夫ですか?」
心地よく響く低い男性の声が頭から聞こえる。この声はどこかで聞いたことのあるような無いような。
しかし義文にはそんな事はどうでもよかった。今気にする事はガラスのぶつかる音がしたケーキの箱の中身。
義文は慌てて箱を開けると…
「ああ~っ!折角買ったケーキがぁっ!」
正確にはケーキではなく、ココットに入った柔らかいムースなどだが。
「ああぁ…一つ五百円もするのに…とても四つ買い直す金なんてねぇよ…」
箱の中の残骸をみて義文は本気で泣きそうになった。
「ごめん、ちょっとよそ見してたから…」
すっかりケーキの事で頭が一杯だった義文は、ケーキを残骸へと変化させた張本人をすっかり忘れていた。男は、
道にへたりこんでいる義文の前へしゃがむ。
「これは俺が弁償するから…」
「当たりま……っ……」
怒りで顔を男に向けた時、二人は初めて目をあわした。
男の言葉通り、ケーキを弁償させようと顔を上げた義文の、言葉と動きが止まった。
いや、固まったと言う方がぴったりだ。
男もなぜか動きが止まった。
ついてないときはとことんついてないらしい。顔を上げた先にあった男の顔は、今年ぎりぎりで入学した星陵高校
のクラスメートである新田一成であった。
もはや義文の中には神や仏などというものは存在しなかった。
(こいつは、そうだ、同じクラスの新田だ……っ)
襟足が隠れる程度の少し長い黒髪に、すっきりとした形の良い鼻筋、無駄毛のない眉毛、そして綺麗な二重まぶた

彼はあまり目立たない大人しいイメージがあり、席が離れていていることもあり、あまり話したことがなかった。
そのせいか印象は薄い。だが目の前でしゃがんでいる、わりと端正な顔をした男は確かにクラスメートの新田その
もので。
休日なので制服を着ていないせいか、普段のぼやけた印象とはずいぶん違って見えた。
(さようなら、俺の青春。こんにちは、下僕よろしく奴隷生活)
運悪く女装をクラスメートである新田に見られてしまった義文は、そうひとりごちたのだった。
入学してから三ヶ月しかたっていないのに、早くも楽しい高校生活のライフプランは崩れ落ちた。
「あの…、どこかで会った事ありませんか?」
「へ?」
やがて来るであろう自分の悲しい未来で頭をかかえていると、新田からすっとんきょうな質問が発せられた。
「いや、どこかで見たことあるような感じがしたから…。」
少し照れくさそうに言う。
普通に聞けばベタなナンパ文句にしか聞こえないものだが、見たことあるも何も同じクラスのクラスメートなのだ
。気づくのが普通だと思う。
(こいつ、俺の事気づいてないのか?)
義文はまじまじと新田の顔を見てみるが、新田は目の前にいる女の子が義文だとは気づいていない様子。
義文の上から希望の光が射して来た。
(これはチャンスだ!)
義文はスッと立ち上がり
「いえ、会ったことありませんが?ケーキはいいです。お…わ、私はこれで失礼します。」
ケーキの損失は痛かったが、向こう三年間続く奴隷生活よりは何百倍もましなので後で姉に土下座しよう。そう覚
悟してこの場を去る事にした。
「待って!」
「!?」
義文は去り際、新田に手首を掴まれる。
「な、何…?」
(ばれたか!?)
手首を掴まれて心臓をばくばくさせる義文。
「悪いからケーキを弁償させて欲しい。」
「いや、いいです…よそ見してた自分も悪いので」
(早く帰りたいんだよ俺は!)
なんとか新田から逃れようと試みたが…
「俺が、勝手にそうしたいんだ…。お詫びにその後にでもお茶でもどうかな?」
義文からまだ手を放さずに、少し照れくさそうに言った。
そんな新田は男らしくて、おまけに私服のせいか二つばかり年上に見えるが、照れくさそうにしていると不覚にも
かわいいとも思える。
しかし、新田のセリフはお馬鹿な義文でもその意味はわかった。
「もしかして…ナンパ?」
「そうとも言う」
新田は嫌味無く、さわやかに笑った。
(こいつ、こんな顔するんだ…)
義文は普段新田と話した事がなかったので、思わずその笑顔に見とれてしまった。
「あ、いや、でも…」
「いいからいいから。」
言葉を濁す義文の手を再び引いて新田は駅の方へと歩き出した。
見た目のおとなしそうなイメージと違い、以外に強引な新田に義文は手を引かれながらわたわたする。しかし、自
分の正体に気づいていないようで、ケーキを弁償してくれると言うのだから、断る理由もない。義文は大人しく新
田に従うことにした。
女装は今日限りで、明日には普段どおりなのだから。
義文は新田の数歩後ろをついていく。そして思う。
女装しただけで何故こんなにもいろんな人、特に男に声を掛けられるのだろうか。
ふと通りすぎようとした小さなレストランの窓をちらりと見た。
レストランの窓は鏡のようになっている。
(お、かわいい女の子…)
と、窓に映っている女の子を見ると、そこには自分と新田しか映っていない。
(とすると、こっこれは俺なのか!?)
義文はレストランの窓に寄って行き、自分の顔をまじまじと見つめた。
わりと女顔ではある、と自覚していたシャープな顎のライン。
普通に小さくもなく大きくもない二重瞼は、ビューラーで睫毛をくるんとあげられ、ラメの入ったシルバーのシャ
ドウを薄くのせられ、ぱっちり瞼になっている。眉毛はきれいな形に剃られていた。
頬はオレンジ系のチークを薄く上品にのせていて、ふっくらとした形のよい唇には血色のよさを際だたせる透明の
グロスが塗られていた。
普段はベリーショートの髪の毛も、肩より少し長いウィッグがつけられている。
女装というとニューハーフが思い浮かび、ニューハーフというとごつい体にうっすらと青い髭の剃り跡が残る厚化
粧の男が思い浮かぶ。
きれいなニューハーフもTVで観たことがあるのだが、それはもともときれいな顔立ちの人。
それなりに女顔で悪くない顔だとしても、義文は男そのものだ。自分の女装姿は見たくない。
ガラスに映る初めて女装をした自分は、そこらのアイドル顔負けな程の美少女だった。
(俺ってかわいいじゃん!)
思わず顔が綻ぶ。
「どうしたの?」
新田はレストランのガラスにへばりついて、自分の顔に見とれている義文をいぶかし気に見る。
「あ、いやなんでもない」
一瞬存在を忘れていた新田の声にハッとして、義文は振り返る。
(これじゃー出会って日の浅いクラスメートじゃ俺の正体わかんねーよな!)
「じゃ、行こっか」
義文は安堵で微笑み、新田へ向かう。
新田は義文を見てやわらかく微笑んだ。
デパートへ着いた二人は早速お菓子売り場へ向かい、残骸になってしまったケーキと同じものを買った。
新田はさらに二つおまけにケーキを買った。そしてデパートのレストラン街にある喫茶店でお茶をして、なんとな
くいい雰囲気になった。
「へぇ~、そんなことがあったんだ」
「そうなんだよー。まいったよホント」
義文は女装をしていることを伏せ、今日の出来事を話した。新田はくすくす笑っている。
喫茶店に入って数十分、二人は他愛のない話をした。短い時間の中、新田が感じや性格のいい奴だと知る。
しかし、大人しそうなイメージなのにナンパをしているとは意外だな、と義文は思う。
新田はおぼろげなイメージとして、大人しい、硬派、優等生が当てはまる。
だが実際は道でぶつかった女の子(本当は男なのだが)にナンパをしている。
しかもちょっと強引に。
男は誰しもそういう願望はあるものだが、人は見かけによらないとはこの事だ。
新田はわりと線の綺麗な端正な顔をしているので、ナンパされても女の子は悪い気しないだろうとは思う。
義文は女装すればナンパこそされたけれど、男の姿でナンパする側ならかすりもしないだろう。
羨ましい限りだ。
新田の顔をしげしげと見ながらそんな事を思っていたら、
「所で君はどこの高校に行ってるの?」
「え、高…校?」
一瞬、お前と一緒の星陵高校だよ、と答えそうになった。
自分は今女装をしている。
下手にしゃべったら墓穴どころか地雷を踏み兼ねない。
「お…わ、私は…星鈴女学院に行ってる…」
星陵高校の姉妹校の名前を言った。
「へ~、星鈴なんだ。凄いね!じゃあ学校は近いね」
新田は穏やかに微笑んだ。
その笑顔が義文には怖く感じられた。
実際星陵高校と星鈴女学院の距離は駅一つ分で近い。
「駅前歩いてたって事はこの辺に住んでいるの?」
だんだん話があやしい方向へと向かっていく。
義文は、携帯電話をジーンズのボケットから出し、カチンと開けて時間を見る仕草をした。
そして
「悪い、そろそろ時間だから」
と、さも訳ありそうな科白でわざとらしく席を立った。
新田も、じゃあ出ようか、と席を立ってくれた。
いい奴なだけに、質問をはぐらかすのは心が痛いが、弱みを見せて折角の高校生活をみすみす棒に振るような事は
したくない。
新田は会計を済ませ、二人はデパートを出て駅通りの繁華街へでた。
歩いている間、なんとなく沈黙が続く。
しばらく赤レンガの通りを歩いて、そして自分の家へと向かう道の角にさしかかる。
「じゃあ、お、わ、私はここで。今日はありがとな」
義文はじゃ、と手を上げて去ろうとした。
きびすを返したその時、新田は義文の右手首を掴んだ。
「!!?」
驚いて新田をみる。
新田は少しせつなそうに、そして何かを哀願するような瞳をしている。
「…な、何…?」
「………よかったら、また、会ってくれないかな…。君とまた会いたいんだ。」
(どえぇぇぇーーーーーー!!!!??)
新田は女の子ならころっと落ちてしまうような、そんな歯の浮く台詞を恥ずかし気もなくさらったと言った。
「ごめん、いきなりで気持ち悪いかもしれないけど…こんな気持ちは初めてなんだ。名前を教えて欲しい。」
義文はいきなりの事態に驚き、どうしていいか困惑する
新田は哀願から切望の瞳へと変わる。
(………どうしよう、恋愛経験の無いに等しい俺には新田を軽くかわす事なんてできない。)
義文は言葉に詰まる。
「せめて名前だけでも教えて欲しいっ」
新田は義文へさらに詰め寄る。新田の気迫に
「あ……、よ、よし…義…子…」
義文は目を斜め右下方向へ目を泳がせ、苦し紛れの名前を言った。
「義子ちゃんって言うんだ。」
新田の切ない顔はみるみる晴れていき、陽が差してきたように明るくなった。
にっこりと、それはもうさわやかでさわやかで。
本当に、これが女の子だったら転がり落ちるだろう。しかし義文は男だ。
男にいいよられても嬉しくも何ともない。
悲しいだけだ。
しかも自分を女と間違えて。
「俺は新田一成ていうんだ。」
(知ってるよ…)
義文はそう心の中ひとりごちた。
「そうだ、俺星陵の剣道部なんだ。」
(へぇ、剣道部なんだ。どうりでスポーツ少年のようなさわやかな笑顔を連発すると思った)
義文は十センチ程背の高い新田を見上げた。
義文は一六七センチの背丈でそれなりに高いが、新田はさらに十センチ高かった。
新田は義文を見て、そして手を握る。
「今度の日曜県立武道館て試合があるから、見に来て欲しい。」
義文は返答に困る。今日新田のナンパに付き合ったのは強引という事もあるが、残骸になったケーキを弁償させる
ためと、今日限りの付き合いだと思ったからなのだ。
「………。」
言葉に詰まる義文に、新田は更に更に詰め寄る。
「君に応援に来て欲しいんだ!」
義文は真摯な眼差しで新田に詰め寄られる。
いい返答をしないと帰してもらえない雰囲気だ。
こんな事ならナンパに付き合わないでさっさと逃げればよかった、と義文は後悔する。
別に新田が嫌なのではなく、女の子と間違えていい寄られるのが嫌なのだ。
ノーマルの男なら当たり前だ。
しかし今日のおかげで普段まったくしゃべらなかった新田がとてもいい奴だという事も知ったわけで。
しかしいくら新田がいい奴だとしても、こんな出会いをしてしまっては次の日から普通に話しかけるのは無理な話
だ。
普通に友達として出会いたかった…。
そうしたらお互いいい友達になれたのに……。
義文の心は沈む。
「いいよ…。今度の日曜日、試合見に行くよ。」
「本当!?嬉しいよ!」
仕方なく義文は試合を見に行くと了承した。
新田はそれはもう、サンタクロースからクリスマスプレゼントを貰った子供の様に喜んだ。
そんな新田をやれやれ、とため息をついて見ていた。
来週の日曜日、剣道の試合を見たらさっさと姿をくらませようと。
それで最後なのだ。
義文はじゃあ先を急ぐから、と素早く家へ帰ったのだった。
義文は自宅へ着くなり新田に買ってもらったケーキをダイニングのテーブルへ置き、自分の部屋へ向かった。
ドアを開いて部屋へ入り、力なくベッドへと突っ伏した。
「疲れた……」
今日は色々な事がありすぎた。姉には無理やり女装させられ、男にナンパされ…。
義文はごろんと仰向けになって天井をぼうっと見つめた。
新田一成…
わりと男らしい端正な顔で、大人しくて大人っぽいと思えば無邪気に笑って喜んで、嫌味なくらいその笑顔はさわ
やかで、そしてかなり強引。
「変な奴だ」
だけど話するのは楽しかった。しかし自分は女装している男であって、女ではない。
そんな自分に新田はまた会いたいと言ってきた。日曜日に剣道の試合に行く始末。
平凡でゲームが大好きな義文には、過激で色んな事がありすぎてしまった。
疲れたため息が無意識に出てしまう。
と、物思いにふけているとドアをノックする音が聞こえた。
次にドアがガチャリと開く。開かれたドアとしきりの間から姉の美幸が顔を出した。
「よ~しふみ!今日はどうだった~、外の世界は?」
美幸はにまにまと嫌な笑みを浮かべている。そんな美幸に義文はげんなりする。
(諸悪の根源がきたか…)
義文は身を起こす。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないでしょ~?今日の感想よっ!あ、でもあまりの変わりように道踏み外すのはやめてね~。大
学の先輩の友達にいるのよ。」
お前のせいで危うく道を踏み外す所だった!と罵声を美幸に浴びせたかったが、義文はぐっとこらえる。
「所でケーキ二つ多かったけどどうしたわけ?四つ分のお金しか渡してなかったと思うけど…」
さすがは姉、嫌な所を突いてきた。
「………」
しかめっつらで押し黙っていたが、義文の顔からは血の気が引いていくような感じがした。
そんな義文の様子を見て、頭がよくて勘の良い美幸は気づく。
「もしかして、マジでナンパ…されちゃった…?」
義文はうなだれる。しばらく二人の間に沈黙が流れる。
「自分で女装させておきながら、あんた本当美少女だったもんねぇ…」
美幸はほぅっと半分メイクのとれかかった義文を見つめた。
その瞬間ぶち…と、何かが切れる音が頭の中でした。
「そーだよ!姉ちゃんが俺に女装なんかさせるからいけないんだろ!どーすんだよっ高校の同級生にナンパされて
っ最後にはまた会いたいとか言ってきやがるしっ今度の日曜そいつの試合見に行かなきゃなんねーし!どうしてく
れんだよっ俺の高校生活めちゃくちゃにしやがってっ!」

色んな事がありすぎてとうとうキレてしまった。込み上げてきたきたものを一気に美幸へとぶちまけてしまった。
ぶちまけてしまった瞬間しまった、と口を手で塞いだ。いくら口を塞いでも言ってしまったもんは当然聞かれてし
まっている。
美幸はあまりの壮絶な出来事への義文の叫びに目を丸くした。
「……そう、そんな事があったの…。テストで赤点とったあんたが悪いけど、責任は取るわ」
美幸は真摯な眼差しで義文を見据えた。
え、と義文は瞳を輝かせて美幸を見上げた。姉が何とかしてくれるのかと。
「日曜日、お姉ちゃんが責任を持ってあんたを再び美少女にしてあげる!」
めらめらと美幸の瞳に炎が燃える。義文はベッドからずり落ちた。
「だーかーらーっ何でなんでもかんでも女装で解決しようとすんだよ!他に何か解決策はねーのかよ!」
ばふばふと座っているベッドの布団を叩く。
「自分はクラスメートの中田義文で~す、てはらせば?」
美幸はしれっとしごく当たり前の返答をした。その言い方がむかつくのだが。
「俺は弱み握られたくないんだよっ!」
義文はまたも憤慨してばふばふと布団を叩く。
「じゃあ思いっきり振っておやんなさい、その今度の試合とやらで!」
びしっと右手の人指し指を出し、ぴしりと言い放った。
「そっか、そうだよな、振っちまえばいいんだ…お前は嫌いだって」
義文は当たり前の事に感心した。美幸もうんうん、と頷く。


女装をして義子となった義文が、クラスメートの新田一成にナンパされてから早くも日が一日が経った。
朝起きて歯を磨いて、学校の用意をする体は重い。気分も重い。
学校へ行きたくない…。
別に新田に女装がばれている訳でもないし、日常たいして親しくもない。
だがクラスメートなので毎日顔を合わせなければいけない。どんな顔をして会えばいいのか?
重いため息が義文の口から吐き出される。
それでも健康体な義文は仮病で学校を休む事はできない。
仕方なく半袖のワイシャツにベージュの袖無しセーターと黒のラインが入ったズボンを着て、朝食を済ませて学校
へ行く事にした。
教室の中はいつもと変わらぬ風景だった。
その様子になんだかほっとする。昨日の出来事がまるで悪夢のようだ。
「おーっす義文」
「おはよー、ヨッシー」
教室へ入り、自分の席へつくと、いつもつるんでいる友人の一人が側へやってきた。
名前は吉田であだ名がヨッシー。
背丈は義文より若干高く、義文よりもひょろっと青白い。
少し面長の顔に細い銀のフレームのメガネをかけている。
笑うと顔に溶けてしまいそうな程の細い目に、口元のえくぼが見慣れるとチャーミングだ。
吉田はえんじ色のネクタイをきっちりと締めて、きっちりと制服を着こなしている。
吉田との軽い挨拶が終わるともう一人のそっと二人に近づいてきた。
「うっす!ファイヤーデステニー、クリアしたか?」
「おはよー、つち。昨日はクリアどころじゃなかったよー」
「僕はやっと伝説の炎継承までいったよ」
のそっと現れた男は義文のもう一人の友人土屋だ。
土屋は綺麗な白い肌にさらさらの髪の毛、綺麗な二重瞼で切れ長の瞳も持つそこそこの美貌の持ち主だ。
ただし太っているのが玉に傷。吉田とは対照的にベージュのセーターを着ず、ワイシャツをズボンからだらしなく
出している。
「俺はクリアしちゃったぜー」
土屋は二人に向かいへらへら笑う。その土屋が「お、」と何か思い出したように自分の席へ行き、鞄の中から何かを
取り出して戻ってきた。
「そうそう、昨日ネットで落としたテクスチャツール。コピるか?」
土屋はパソコン用のCDロムを義文と吉田に見せた。どうやら3Dソフトのプラグインらしい。
「どういう質感が出るわけ?」
義文と吉田は土屋へ寄る。
土屋はCDロムのケースの中から折たたんである紙を取り出した。
紙はそのテクスチャの質感とやらをプリンターで印刷したものだった。
「こんな感じ。球体がより滑らかになるやつ」
「へぇ~、じゃあ俺の分も頼む」
「僕のもお願い」
「わかった」
「そう言えばトショCS4にプロ版出たんだって。二万でアップグレードできるよ」
「まじで?てかトショCS4は正規購入してないから無理だ」
「それだったら俺アヤの学生版が欲しい」
「学生版でも28万するじゃん」
「僕は3Dラボが欲しいな~。あれ25万なんだよね」
「もうすこし経てば今の値段でもっといいやつでるだろー」
などなど恒例の、普通の学生には解らない話で盛り上がっていると始業のチャイムが鳴った。
担任が教室へ入ってきて、出欠席を取る用意をしているうちに皆そそくさと自分の席へとつく。
担任が出欠席を取り始める。
その間義文へ誰かの視線が刺さる。
さっきから何だか視線が感じる…。朝教室に入ってきてからだ。
…嫌な予感がする。いや、あえて考えないでおこう。
出欠がおわり、担任が今日の連絡事項を告げて教室をでていく。
一時限目にある数学の授業開始まで五分ある。義文は教科書を机の中からだして用意する。
すると傍らに人の気配が。
吉田か土屋かな、と顔をあげると
「おはよう」
「………」
義文は頭の中がフリーズしそうになった。そこには昨日自分とは知らずにナンパしてきたクラスメートが立ってい
たからだ。
「…あ、何か用?」
気まずそうに義文がそっけなく言うと、新田は少し戸惑いがちにする。
「あー、まぁ、用って言っちゃ用なんだけど…」
(何なんだよっ俺になんの用があるんだよ!女装はばれてないはずだ!いや、もしかしたら最初から分かっていて
、後でゆすろうって魂胆だったのか?)
義文の頭がぐるぐると回る。
「中田ってさ、お姉さんか妹さんいる?」
義文は一瞬きょとんとする。
「姉ちゃんならいるけど…?」
「そっか」
何か安心したようにほっと胸を撫でる。
???
新田が分からない。義文はまたも困惑する。
「いや、実は昨日気になる女の子がいてさ」
嫌な予感…。
「学校と下の名前しか聞けなくてどうしてもその人の事が知りたかったから、…悪いとは思ったんだけど後をつけ
させて貰ったんだ。したら表札がが中田って…」
足元ががらがらと音を立てて崩れていく。
そして奈落の底へと落ちていくような、そんな心境だ。
思わず椅子から落ちて尻もちをついた義文。
「おまっそれストーカーじゃねえかよ!」
出ない声を必死で上げた。
「いや、悪いとは思ったんだけど、その子に本気になりそうなんだ!」
新田は尻もちをついた義文を起こそうと屈む。が、義文は自分で体勢を整えて席へとついた。
逃げ出したい自分に叱咤して何とか平常心を保つ。
「顔とかなんとなく似てるし」
なんとなくも何も本人なのだが…。
だがこの分だと女装に気づいてない様子だ。
元来嘘がつけない性分の義文は下手な事は言えず、黙秘を決め込んだ。
心臓が嫌な響きで鳴っている。
そんな義文の心中を知らずに新田は続ける。
「中田のお姉さんの名前、義子って名前でない?中田の下の名前って義文だったよな、絶対姉弟だと思うんだけど

喜々として喋る。
知らずに昨日のうちに墓穴を掘っていたとは。
義文は暗たんとしながら口を開いた。
「義…子は二番目、の姉ちゃんかも…」
しどろもどろと嘘を吐く。
もう逃げられない。
終わった、俺の楽しい高校生活…。こんな友人でごめんな、吉田、土屋。
「そっか、やっぱしな!すげー嬉しいよ!」
本当に嬉しそうにさわやかに笑う新田。
そんな新田とは全くの正反対の義文。なのであまりに嬉しそうな新田に釘を刺した。
「言っとくけどあいつはだめだぞ」
「何で?」
「何でって…」
言葉に詰まる。義子は自分だから、とは死んでも言えない。
「あ、もしかしてシスコン?」
「ばか、ちげーよ!あ~、あいつはそう!態度でかくて自分勝手で性格悪いし男癖も悪いし、すぐ親に金せびって
海外旅行行きたがるし、全然だめって感じ!他の女探した方が絶対いいよ!」
嘘のつけない義文はつい自分の姉美幸の事を言った。
「そうかな?昨日話した時はそんな感じはしなかったけどな」
「そうなんだよ!」
だから諦めてくれ!そう言おうとしたら、
「でも一目惚れっぽい」
新田はかわいい笑顔で照れる。その顔は昨日の時と全く同じだった。
「頼む!紹介してくれ!」
両手を合わせてお願いする新田。
どうやってだよ!と思わず新田の脇腹に手を添えてお笑い風に突っ込みを入れたくなる義文。
「あ~、俺からは紹介できないな…。てか昨日ナンパしたんだろ?それでいいじゃん」
冷たくあしらう。
「何で知ってんの?」
(しまった!)
義文の背筋が凍る。
「え…だってさっき昨日名前聞いたとかって…あれってナンパじゃないの?」
「あ、まあね。実は昨日今度の日曜日にある試合を見に来てもらう約束をしたんだ」
「試合?」
本当は何の試合か知っていたが、義文はいかにも初耳なように聞き返した。
新田は照れ笑いをしながら
「あ、俺剣道部なんだ」
頭をぽりぽりと掻く。
「へ~、剣道部なんだ~」
またも義理返事。
「中田は部活何か入ってる?よかったら見学してかないか?」
「あ、俺パソコン部だから…」
(幽霊部員だけど…。)
とは付け足さずに新田の申し出をやんわりと断った。これ以上あまり関わり合いたくないから。
「まあまあ、見学だけでもいいだろ?楽しいぜ!今日の放課後どう?」
昨日身をもって知ったのだが、相変わらずの強引さにもはや笑うしかない。
強引さに嫌味がないのがさすがだ。
「わかったよ…。今日の放課後な」
半ば呆れて新田の申し出を了承すると、新田は
「おっしゃ!じゃあ放課後な!」
と、昨日試合を見に行くと了承した時と同じくらいに喜んだ。
(やっぱし変な奴だ。)
数学の先生が教室に入ってきたので自分の席に戻る新田を、義文はそんな目で見つめた。
今日の授業がすべて終わり、掃除もホームルームも終わり、ほっと一息つく。
朝に新田に話しかけられたが、その他の休み時間は話しかけられる事はなかった。
もしかしたら放課後剣道部へ見学する約束は忘れているのかもしれない。その場の勢いだったのかもしれない。
教室には半数の生徒が残っていたが、その中に新田の姿はなく、義文は鞄を手に取り、そそくさと友人の吉田と土
屋に挨拶もせず教室を出ようとした。
廊下へ出て昇降口へ向かおうとすると、
「中田ー」
後ろから義文には恐怖でしかないクラスメートの声が。
義文は恐る恐る後ろへ振り返ると…そこには奴がいた。
「見学、するだろ?」
「あ、ああ…」
どこかへ行っていたのか教室にはいなかった新田が、廊下へ出た義文の後ろに立っていた。
断り切れない意思の弱い自分に嫌悪しながら義文は苦い返事をした。
本当は行きたくないし、関わり合いたくないのだが、嫌いなわけではないし、変に断っていらない事を勘ぐられて
は困る。
「格技場でやってるから」
新田はすたすたと義文の横を歩く。
義文も仕方なく一緒に歩く。
「今日は月曜だから剣道部の日なんだ」
星陵高校は文武両道の幼稚舎から大学まである有名進学校で、食堂はレストランや喫茶店、はたまたファーストフ
ード店が入っている。
購買部はコンビニ並み。
そしてITにも力を入れているので、高校といえどかなり新しいOA機器がフル装備されている。
全クラス週一回の情報処理等のパソコン実習も入っている。
三年からは選択で普通科、商業科、音楽科、美術科、情報処理科に行けるようになっていて、義文が星陵高校を選
んだのはそこにあった。
幼い頃からゲームが大好きで、いつか自分も大好きなゲームを作る人になりたいと思っていた。
いつしかゲームデザインやゲームクリエーター、CGクリエーターに興味をもち始めた。
姉に相談してみると工科大学か専門学校に行きなさいと言われた。ただし、専門学校出はいざ就職できても給料が
大学出の人よりも低くなるから、その道を行くなら一流の工科大学を出なさい。とも付け加えられた。
そして中学二年の時に義文はお年玉を全額はたいて、親にもさらに半分出してもらい当時の最新版マッキントッシ
ュにハードディスクとメモリ、周辺機器を揃えてもらった。
ただ普通科でだらだら三年間を過ごすより、少しでもパソコンに詳しくなりたかったので、一年からパソコン実習
があり、三年生から選択で情報処理科に入れる聖陵高校を第一志望校にして、今に至る。
星陵高校は文武両道をうたい文句にしてるだけあって、スポーツにも力を入れている。
巨大な体育館の二階には筋力トレーニングジムが入っている。
さらにテニスコート、弓道場に格技場が揃っている。中学校と共有だが。
共有といってもそれだけ面積も広いため、中学生と高校生が同じ時間に体育館を共有してもさほど困ることはない

新田と義文は他愛のない話をしながら巨大な格技場についた。
そして中から奇声と言えるような掛け声が響いてきた。
エントランスを抜けて鉄製のドアをがらがらと引くと、中は一面大中小それぞれの体格の男達が練習をしている。
奥の片隅には柔道部が基礎トレをしている。
「すげー…」
壮観とも言える風景に言葉が漏れる。
「ここでちょっと待ってて、着がえてくるから」
新田はそう言って道場の中心にいる三年生らしき体格のいい男の所へ掛けていき、なにやら話している。
そして部室と思われるドアへと消えていった。
中心にいた男が、義文の前へやってきてにかっと笑った。
「俺は剣道部部長の高見だ。見学者だって?気楽にそこら辺に座って見ててくれよ」
「あ、はい」
剣道部部長の高見はぽん、と軽く義文の肩をたたく。
義文は言葉に甘えて道場の片隅へ腰を落ろした。
見てるとなかなか面白い。
格闘ゲームも好きで、いつか作ってみたい義文には参考になる。
次は柔道部も見学してみよう、義文は真剣にその練習風景を見つめていた。
しばらくすると新田が剣道着を着て出てきた。
剣道着を着ている新田は今までの浮ついた雰囲気は消えて、周りの空気がぴん、と張りつめていた。
そして壁側に行き、一通りの筋トレをしてから練習に加わった。
新田が入り、中学生と高校生がいる大所帯の剣道部は練習試合に入った。
今度の日曜日にある試合のためだろう。
顧問の先生と剣道を指導しているらしい初老の先生が審判につく。
二面の試合場で、中学生から練習試合が始まった。三十人程しかいなかったのですぐに終わり、次は新田のいる高
校生の部になった。
と、新田と上級生と言える体格のいい岩みたいな顔の男が出てきた。
位置について礼をして構える。審判がはじめ、と叫んだ。
その瞬間新田は軽やかに駆け、素人目にも分かる隙のない動きで相手を攻撃していった。
そこには無駄な動きなどなく、見事に小手を入れる。そして一瞬隙をついて、めぇんと叫んだ新田は目にも止まら
ぬ早業で相手の頭の防具に竹刀を入れていた。
「………っ!」
息を飲む義文。思わず見惚れてしまった。
新田の試合が終わった後、三軍まである全部の試合を見ていたが、お世辞にも新田以上に技に切れのある部員は部
長と主将以外いなかった。
部活が終わり、着がえ終わるのを待って、新田と途中まで一緒に帰る事になった。
義文はいつも校門に停留所があるバスには乗らず歩いて通学していた。聞くと新田も歩いて通学していると言う。
とぼとぼと薄暗くなった通学路を歩く。
閑静な住宅街の中に学校があるため、部活が終わる時間には殆ど人気がない。
「強いんだな」
しん、と静まり返った道を歩きながら義文はぽつりと言う。
「惚れ直したか?」
「ばーか」
悪びれて言う新田へ笑って返す。
まるで何年も前から親友だったようなやりとりだ。
実際見とれていたのは確かだ。
切れのある技を華麗に繰り出す剣道着姿の新田は、とてもかっこよかった。
そんな事は死んでも口に出せないが。
「新田は家どこにあんの?」
「川崎」
「まじで!?俺ん家も川崎だよ!どの辺?」
「鶴見の方」
「へ~、じゃあかなり近いんだな」
「そうだなー、よく休日顔合わせなかったな」
新田の言葉に義文はつい先ほどまで忘れていた事を思い出した。
練習試合に見惚れていてすっかり忘れていたのだ。
かなりまずい状況。
そう、家が近いと女装して新田と接触するのにとても都合が悪くなる。
普段の日でも部活がなければ、義子の事を聞き出そうとして一緒に帰ろう、と言いだし兼ねない。
あまり学校でも関わらないようにしたかった義文にはかなりまずい。
「そうだ、これから俺の家寄って行かないか?」
「はあ!?」
いきなり突拍子のない事を言い出した新田に思わず聞き返してしまった。
「いや、遠慮しとくよ。夜だし急にお邪魔するなんて悪いし」
新田の申し出に義文は丁重にお断りした。
「家なら構わないぜ、どうせ夜までやってるし」
「?」
義文は眉をひそめる。
「あ、いや、お近づきのしるしにさ。それに、俺の強さの秘訣がわかるぜ」
新田は義文へ妖く微笑む。何とも意味ありげに。
義文はその新田の表情に息を飲んだ。
こいつは男の友達にもこんな顔するのだろうか。
何とも謎めいていて、妖くて、色気があり、女の子なら惚れているかもしれない。
「どうせ近いんだし大丈夫だろ」
そう言っていつもの顔に戻った新田はぽんぽん、と義文の背中を叩いた。
彼の強さの秘訣が家にあるのだろう口ぶりに少し興味が湧いた。
「じゃあ、少しだけお邪魔しよっかな」
義文は家が近いこともあり、新田の家へ少しだけ遊びに行く事にした。
それに自分だけ家を知られているのは悔しいから。
最寄り駅に着く間、電車の中でも色々な話をした。
エスカレーター式の高校を外部受験した事や、先生や友達の事など。
新田も外部受験らしい。
「俺は三年になったら情報処理科に行きたいんだ」
「そうなんだ。そう言えば学校でよくわけ分かんない話してるよな」
新田の席まで声が届いていたのか!?
義文は今度から気をつけようと思った。
「パソコン関係に興味があるから。お前は?」
義文は新田へ振った。
「俺は音楽科があるからここにした」
「音楽~!?」
数十分前まで竹刀を振り回していた新田の発言とは思えない。
「見えない?」
「見えない見えない!すげー意外!」
「そこまで言い切られると悲しいかも」
新田は苦笑する。
と、そうこうやり取りしてるうちに駅に着いた。
学校の最寄り駅から自宅の最寄り駅までは二十分位で着く。
新田の家は義文の家とは反対の出口で、歩いて十五分ほどの割りと駅から近い距離にあるという。
大通りを十分ほど歩いて、角を曲がった。すると住宅街に出た。
五分歩いてお寺みたいな塀が続く。
「もうすぐだから」
そして新田は義文がお寺だとばかり思っていた門で足を止めた。
「ここ」
「え、ここって…」
(お寺じゃないの?)
二メートルほどある白い塀と門には瓦がついていて、門の扉は重々しい年月を感じさせる木の扉だ。
扉は開いている。
扉の横には同じ木の看板が掛かっていて。
「剣道場…?」
「そ、俺ん家剣道場なんだ」
そう微笑んで門をくぐる。
門をくぐるとやはりお寺みたいな建物が視界へ飛び込んだ。
とにかくでかい。
道場とはこんなにでかいものなのか。
思わず義文はその建物の威圧感に卒倒しそうになる。
「ここが道場で、家が少し離れた所にあるんだ」
新田が説明している間もきょろきょろと辺りを見回す。
田舎から都会に上京してきた子のようだ。
新田は小さく笑う。
「ちょっと中見てみる?」
「うん、見る」
新田の申し出に初めて素直に返事をした。
道場の扉を開けると、明るい道場から騒音がわっ、と義文を襲う。掛け声や竹刀が防具を打つ音、門下生に指示を
出している新田の父らしき師範の声など様々に。
呆けて見ていると、どたどたと小学生がこちらへ走ってきた。
「お兄ちゃんお帰りー!」
「ただいま」
新田の弟らしい小学校低学年くらいの髪の毛さらさらで目のくりっとしたかわいい男の子が、嬉しそうに新田へ駆
け寄ってきた。
するともう一人、今度は中学生くらいの男の子がこちらにやってきた。
思わず義文は小さく笑ってしまった。
新田の中学生時代を見た。
「兄ちゃん、今日は遅かったんだな」
「ああ、今度の日新杯があるからな」
新田の明らかにわかりすぎるそっくりの弟のもう一人が新田へと寄る。
すげえ!三兄弟だよ!すげー似てる!
影で一人、義文はつぼに入っていた。
中学生である次男、つまり一番目の弟が達也といい、小学生の二番目の弟が良太だと教えてくれた。
新田の一番目の弟である達也が義文に気づく。
「そちらは?」
「俺の友達」
「そうなんだ、じゃあ今日の稽古はやらないんだ」
「いや、飯食ったらつけてもらう」
そう言って新田は道場から出た。
「驚いたろ」
「ああ、そっくりだな、お前の弟!」
道場の事を言ったのに違う事に驚いている義文に新田は小さく笑う。
辺りはすでに暗くなっていた。携帯の時刻を見ると八時を回っている。
見事な日本庭園の横を歩き、家に着いた。
こちらは道場のような威圧感はなく、同じ日本家屋だが小ぢんまりしている。それでも一般家庭の二倍はある。
新田は家に入り、義文もそれにならう。
「お邪魔しまーす…」
玄関の横にある棚の上には見事な生け花が飾られている。
玄関からまっすぐ伸びている長い廊下の突きあたりに階段があり、新田はそこに向かい歩いていく。
こんな広い家に住んでいるような友達がいない義文にとっては未知の領域だ。
(豪邸訪問みたいだ…。)
思わず口からこぼれそうになる。
「あ、新田の両親に挨拶しなくていいのか?」
「ん?父さんは稽古つけてる最中だし、母さんは今日は遅く帰ってくるから気にしなくていいよ」
新田は穏やかに言う。
「中田って意外に律義なんだな」
「意外はよけいだろ」
くすくすと笑いながら二人は階段を上がった。
階段からまたも長い廊下が続き、一番目のドアの部屋が新田の部屋らしい。
「ここが俺の部屋。ちょっと散らかってるけど気にすんな」
新田はドアを開けて入る。
男の部屋は大抵散らかっているものだ。それを気にする義文でもない。
義文も部屋に入る。
もの凄い散らかりようを想像していたが、意外にも部屋はきれいに整えられていた。
そしてもっと驚いたのが、
「すげえ…」
部屋の中はギターやらアンプやら、大小のスピーカー、それに大きな赤い棚には音楽CDや楽譜らしきもの、プロモ
ーションビデオがびっちりと詰まっている。壁には外人ロックバンドのポスターなどが何枚か貼られていた。
散らかっていると言えばCDと楽譜が床に数枚散らばっているだけだ。
というか、これほどの物をどうやって揃えたのか。揃えるとなるとかなりの金額になるはずだ。
てっきり道着を脱ぎ散らかしているものだと思っていたのだ。
今度は新田の部屋に驚かされてしまった。
そして電車の中で音楽科に行きたいと話していた新田の言葉を思い出した。
この部屋でなるほど、と納得した。
「すげえな…」
義文はきょろきょろと辺りを見回す。予想通りの言葉だったのか、新田はにやりと笑った。
「家族には悪いけど俺はこれで将来食って行きたいと思ってる」
新田は床に散らばっている楽譜とCDを拾い、隙間のある棚の中へと戻した。
「まじかよ…」
そんな大事な事出を会って日の浅い自分に言ってもいいものだろうか。
とても失礼なのは分かるが、新田の夢にはいまいち現実味がなかった。政治家、医者、画家、音楽家といった職業
は義文にはいまいち現実味を感じない。
自分にも夢はあるがたくさんの努力と少しの才能で可能になるものと思っている。
しかし芸術分野は努力も必要だが、その道で活躍するには才能部分が大半必要になってくる。なので
「そうなんだ…」
と言うしかない。
「てっきりこの道場継ぐのかと思ってた」
「優秀な弟達がいるから大丈夫だよ…」
新田は棚から一枚のCDを取り出す。CDを眺めながら話す新田は穏やかだがどことなく寂しそうな表情がちらつく。
気のせいだろうか?
「俺、スポーツ推薦なんだ。他にも色んな学校から来てたんだけど、星陵は音楽科があるから選んだ」
新田は話ながら取り出したCDをプレーヤーの中に入れて再生した。ロック調の英語の歌が流れ出す。
しかし色んな学校からスポーツ推薦が来ていたとは、相当強いんだな、と義文は息を飲む。まあ、強い訳は今日新
田の家に来て分かったのだが。
「高校出たら専学いく予定。家も出る予定なんだ」
「え…何で家出るの?」
「金にならない夢を追っかけている身だからな、早いうちに自立しなくちゃ」
現実感のない夢を追いかけている割りには意外にもしっかりしていて驚いた。
「まあ、しばらくはバンド仲間と同居だけどな」
へへっといたずら少年の様に笑う新田。
新田の言葉に驚く義文。
「お前バンドやってんの!?すげえ!!」
「まだコピーバンドだけどな」
「いつ練習してんだ?」
「夜中道場で」
義文は吹き出す。
「ぷーっ!もしかして電気付けないで真っ暗な中やってんのか!?」
「いや、真っ暗だと弦が見えないから懐中電灯付けてやってる。夏はいいけど冬は地獄だな、手がかじかんで」
「すっげー根性!」
げらげら笑う。
「一応今月末ライブなんだ。あ、これデモ。よかったら聞いてみてくれよ、今度の新曲。俺が作曲した」
新田は机の上に置いてあったケース入りのCDを義文へ渡した。
「うん、聞いてみるよ。何系?」
「一応ロック系」
「一応かよ!」
笑って突っ込みを入れる。
と、階段下から新田の母親らしき声が新田を呼んだ。
「あ、母さん帰って来たみたいだ」
新田はドアへ向かう。
「あ、じゃあ俺もそろそろ戻るわ」
「そう?」
そして新田と階段を降りた。
階段下には新田の母親が立っていた。
母親は新田とは対照的にふっくらと色白く、短い髪の毛にパーマをしている、いかにもお袋な感じだった。
新田母は晩御飯店屋物にするからどれがいいか、と話していた。
何でもいい、と軽くあしらって
「駅まで送るよ」
と義文の元へ行く。
いやはや、新田には最後まで驚かされっぱなしだ。
「道覚えてるからいいよ。今日は楽しかった」
玄関で、義文はにっと笑う。
「そっか、ならよかった。何もお構いできなかったから」
「じゃ、学校でな」
「ああ」
新田は門の外まで見送りに来て、義文はそこで別れた。
暗い夜道をてくてくとあるく。
今日は新田に誘われるままになってどうなる事かと思ったが、かなり楽しかった。
いや、面白かったと言う方が当てはまるだろう。
学校での普段の新田は変な所もあるが、ちゃんと夢を持っているしっかりとした考えの持ち主だった。
昨日からいい奴だと思っていたが今日で、凄く面白くていい奴にランクアップした。
これで義子の事さえなければ新しい友達が増えたのに…、とかなり気は沈む。
家を知られている以上、関わってくるわけで。日曜日の試合で振ってしまうしかない。
そうこう考えているうちに家へと着いた。
歩いた距離は三十分ほどで、すごく近くに感じられた。
家に入り、自分の部屋へ行く。
母美佐子がご飯はどうする、と階段下から聞いてきたので後で食べる、と返事をする。
自分の部屋でほっと一息ついた義文は、鞄の中から新田から渡されたデモCDを出してパソコンに入れて再生した。
そこからは激しいギター音が流れ、歌も結構激しかった。曲というより歌い方が激しかった。
正直ロックはよく分からないが、曲調はいいと思う。
デモCDを聞いていると姉美幸がノックもなしに部屋へ入ってきた。
「義文ー?」
「何だよ、勝手に部屋に入ってくんなよ」
「うっさい!あら、あんたがゲームサウンド以外の音楽聞いてるなんてめずらしいわね」
「…友達が、やってるバンド…」
義文がごにょごにょと言うと、
「あんたの友達バンドやってんの!?かっこいい?今度紹介してー!」
美幸の目がキラキラ光る。そんな美幸にげんなり。
「姉ちゃんの犠牲にさせたくないからやだ」
「何よそれー!」
心外だとばかりに美幸は憤慨する。
実際美幸は中学時代から美人顔なのをいいことに男をとっかえひっかえしていた。今もバイトの合間をぬっては合
コンに行っている次第。
過去の男達からの嫌がらせやストーカーの被害もあり、実弟の義文としては迷惑この上ない。
とてもじゃないがそんな姉に自分の友達を紹介するなどできない。
女装をしている義文に一目惚れした新田なら、自分に似ていなくもない美幸はOKなのだろうが。
「所で、何か用あんの?」
「そうそう、あんたにプレゼントがあるの」
義文は首を傾げる。今まで姉が何かをプレゼントしてくれた事は一昨年の誕生日以降ない。
美幸はピンクのかわいいショップブランドの紙袋を義文へ渡した。ますます首を傾げる義文。
「開けてみ」
美幸は微笑む。義文は紙袋の中身を開けると…。
「何、コレ?」
「かわいいでしょ!エリーの新作のブラウスとスカート!」
紙袋の中には半袖の白いブラウスと、若草色のプリーツの入った短いスカートが入っていた。
「これを?」
「今度の日曜日にあんたに着せるために買ってきたのよ」
きゃいきゃい楽しそうに喋る。
実姉が解らない…。
義文はため息を吐き出した。
「日曜日にまたメイクしてあげるから、これ大切に着るのよ」
そう言い残して美幸は部屋を出て行った。
何も新しい服買ってこなくてもいいのに…。まあ、女装が終わったら後で自分が着るのだろうが。
義文は服をクローゼットの中に入れてテープを止め、ベッドへ潜り眠る事にした。
「新田ー」
翌朝、義文は学校の教室に入ると新田を呼んだ。剣道部の朝練で既に来ていた新田は自分の席から義文へ向かった

「おはよう」
「おはよー、これ借りてたデモ、サンキュー。結構よかったよ、曲が好きかも」
「本当に!?すげー嬉しい!」
新田は嬉しそうに喜んだ。
同じ将来の夢を持っているのは吉田と土屋だが、同じ様に夢を持つ新田とこうして話せる様になって嬉しい義文は
温かい気持ちで微笑んだ。
「そうだ、新田じゃよそよそしいから、一成って呼んでくれよ」
「え、あ、じゃあ…一成…」
名前で呼んでみて、なぜか照れる義文。
「俺も名前で呼んでいい?」
「いいよ」
「じゃ、義文」
一成に名前で呼ばれてまたも照れる義文。
何だかくすぐったい感じだ。
「何か、これって友達みたいだな」
「友達でいいじゃん、兄弟」
「おま、図々しいぞ!」
と、やり取りしていると別の声に名前を呼ばれた。
「義文ー」
「おはよう、つち」
ぎりぎりの登校で教室に入ってきた土屋だ。土屋はのそっと重そうな体で義文と一成がいる席へ歩いて来た。
「マザーボード買っちった。七千円のだけど今のよりはぜんぜんましだからよ」
「どっからそんな金でるわけ?」
「バイトしてるから」
「あっずり!俺もバイトしようかな、に、一成は何かバイトしてる?」
思わず新田と言いそうになるが、一成に振った。
「新聞配達のバイトやってるよ朝練の前の時間だから」
「えー!新聞配達!?」
義文と土屋は声を揃えた。
「すげくねぇ?」
「お、俺には出来ない…」
「まあ、精神を鍛えるって言うのもあるし、バンドの資金必要だし」
「新田バンドやってんのか?」
土屋が綺麗な瞳を大きく開いた。
「?ああ、まだ掛け出しだけどな。メンバーにインディーズ経験者がいるんだ」
一成がそう言うと土屋が乗り出した。
「俺中学ん時ベースやってた。小学までピアノやってたから譜読みは大丈夫だし」
「え~っ、つちベースやってたの!?初耳!!」
「んー、まあな。途中でCGの魅力に取り憑かれた。新田はパートは?」
「ギターだよ。土屋がベースかぁ、意外だな」
「新田君ー、しつれーい」
「悪い悪い」
一成は笑う。土屋もジョークだと分かっている。
意外にも一成と土屋が気が合うらしく朝はすっかり話に花を咲かせてしまった。
昼の休み時間土屋は、新田は見た目のイメージと違って面白い、と言った。
今まであまり話をした事がないせいか、土屋にも知らずと一成へのイメージが出来てしまっていたらしい。
大人しい、大人びている、硬派などなど。
パンにかじりつきながら言う土屋に吉田は相槌うちながら聞いていた。
友達の和が増えて義文は嬉しくも感じる。
そう、義子の事がなければ更に学校生活が楽しくなると言えよう。
そして一成はと言うと、いつもつるんでるクラスの友達は二人ほどいるが、義文達とも休み時間などに話をするよ
うになった。
少し気の弱い所がある吉田を心配したが、一成の話が新鮮なのか、楽しそうに義文達の会話を聞いていた。
「そうだ、今月末皆で秋葉行かねえか?」
話が盛り上がった際に土屋が言い出した。
何故男四人で秋葉原の電気街に行くのか…、それは一成以外パソコンおたくだからだ。
すると一成は、
「あー、俺も欲しいソフトとか見たいんだけど、月末はだめなんだよな…」
と腕を組んで唸る。
あ、ライブか、と義文は思い出した。
「そうだ、八月十二日にコールウェーブって言う高校生アマチュアバンド大会ってのあるんだけど、予選通って全
国大会に出場する事になったんだ!関係者チケット回すからよかったら見に来てくれよ」
「まじで!?全国大会!?すげえ!!」
義文と土屋と吉田三人は口を揃えて驚いた。
「全国大会って言っても横浜でやるから来やすいだろ」
「もっち行くぜ~!」
土屋はなぜか張り切る。
「頑張れよ、応援しに行くから」
義文と吉田も一成へ激励を飛ばす。
「すげー嬉しい!メンバー共々頑張るから」
三人からの激励を貰い、一成は嬉しくなった。
そんな一成を義文は遠い目で見つめる。
着実に夢への一歩を歩んでいる一成が輝いて見えて、楽しそうで羨ましく感じた。
そして、そうこうしているうちにも女装をして一成の試合を見に行かなければならないという、魔の日曜日は刻一
刻と近づいて来ている。
それに気づいたのは金曜日の帰り際の一成の一言によるものだった。
『日曜日は楽しみだな、義子ちゃんが試合見に来てくれくるから』


どうか日曜日が来ませんように。
病気で病院に運ばれちゃったりしますように。
その日は天変地異を願った。
急病を願った。
しかしどんなに願っても時は過ぎ、日は変わってゆく。
自分の心情をあざ笑うかの様に、日曜日の朝はきれいに晴れ渡っていた。
窓を開けると心地よい風が髪を撫でる。
そんな爽やかな朝と対照的に義文の心はヘドロの様に黒く澱んでいた。
そんな義文の前に美幸がにこにこと笑顔で座っている。メイク道具を手に。
「私こんな妹が欲しかったの。かわいいわよ、義文」
「妹は姉のおもちゃじゃない」
「やあね、妹は妹でしょ、おもちゃになんてしないわよ」
弟の今でも十分姉のいいおもちゃにされてる義文はどうだか、と肩をすくめた。
「さ、この間買ってきた服着ちゃいなさい。そしたら髪セットしてあげる」
「へーい」
義文は立ち上がり、クローゼットの中に封印していた恐るべきかわいいショップブランドの紙袋を出した。
何度見ても中身は変わらず、義文をげんなりさせる。
中に入っているブラウスと、股の下がスースーと風が入って寒そうなスカートを取り出し、姉の目も気にせず着が
えを始めた。
スカートを履いて、気がついた。
「姉ちゃん…ブラ…つけて…」
消えそうな声で目を伏せていう。
「…しょうがないわね…」
中身は男で、美幸にとっては普通の弟なのだが、ベリーショートの髪の毛ままではあるが今はメイクした後の美少
女顔。
そんな弟に目を伏せて恥ずかしそうに言われて、思わず固唾を飲んでしまった。
女も目を見張ってしまうほど色っぽい。
「はい、出来たよ」
「サンキュー」
声は普通の男声なのだが…。
相変わらずつけたブラジャーが恥ずかしいのか慣れないのか、そわそわしている。
そして義文はブラウスを着た。
「じゃあ、次は髪の毛ね」
と、美幸は足元に置いておいた白い紙袋の中からチャコールブラウンの肩までの長さのウィッグを取り出した。
「うわー、出たっカツラ」
「カツラ言わない!」
美幸は少々むっとしながらピンでウィッグを付けていく。
「はい、出来上がり!ついでに爪も付けようか!」
「ええ~!いいよ!試合見に行くだけだぜ!?」
「何言ってんのよ!おしゃれは女の嗜みなのよ!」
そうして既に用意してあった付け爪を同じく白い紙袋から取り出した。
爪はピンク色の、白い花柄のネイルアートが施されていた。
それを一枚一枚貼っていく美幸。
おしゃれな女の子は好きだが、女心はわからない。
そうして見事美少女になった義文は美幸から渡されたハンドバッグを手に持って一成の待つ試合会場へと向かった

一成が言っていた県立武道館は市営地下鉄に乗り換えて三十分ほどかかる駅の所にあった。
駅を降りて出口に向かおうとするとジャージ姿や剣道、弓道、スポーツバッグを持った学生がぞろぞろと西口へ向
かっていたので、義文はそれについて行く事にした。
出口を出て、学生について行く事徒歩五分、巨大な武道館が坂の上から姿を現した。
回りは試合待ちの道着を着た学生や、はたまた試合を見に来た学生、学校関係者で一杯だった。
どう見ても夜の渋谷や新宿に溜まっているギャルみたいな義文。あからさまに自分の格好は場違いで浮いていた。
帰りたい気持ちを押さえて中へと入る。
旅館のような大きな石畳の玄関で靴を脱ぎ、それを受付で渡された透明のビニールに入れて、スリッパを履いてと
にかく歩いた。
正面には家が一戸建てられそうな大きな中庭があり、大きなロビーの突きたあたりには廊下がTの字に左右別れて
いてる。左は弓道着を着た女の子達が歩いて行ったので弓道場があるのだと思った。
さて、剣道場はどこだろう、とまずは右へ行ってみた。
板張りの長い廊下を歩いて階段を降りると、大勢の歓声と掛け声が耳を覆う。
見ると柔道着を着た高校生が戦っている。
ここじゃなかったか、と元のロビーに一旦もどる。
そしてロビーに戻った義文は、竹刀をもった学生が左側の廊下へ走って行くのを見てついて行事にした。
竹刀を持った学生について行くと、弓道場がある左側の廊下へと歩いて行った。
弓道場を通りすぎて、左側に剣道場らしき建物が見えた。
柔道場と同じく階段を降りると、またも大勢の歓声と掛け声が聞こえてきた。
義文は場内を見回すが一成らしき人物は見当たらない。
とりあえず段差になっている観客席に腰を落とす。そして右を向くと壁に人だかりが出来て、なにやら賑わってい
る。
義文も壁に行くと壁には個人戦のトーナメント表が貼り出されていて、個人名とその下に学校名が書かれていた。
義文は人をかき分けて前へ出ると、一成の名前を探した。
試合は地区ごとにABCDの四つのブロックに分かれていて、各ブロックには三十人がエントリーされている。
一成はBブロックの四番目になっていて、試合を見るとちょうど今Aブロックの試合が終わった所だった。
試合場は二面使われているので一成が出てくるのはすぐだろう。
そしてBブロックの試合が始まる。試合はすぐ終わり、三番目と一成が出る四番目の試合がが始まった。
一成は竹刀を上段に構え、わずか数秒で相手に面を打ちつけた。
あまりにも早すぎて何が起こったか分からなかった。
そして難無く五回戦六回戦、準々決勝まで進んだ。これに勝てば準決勝としてAブロックと戦うことになる。準決
勝に勝てば日新杯優勝になる。
しかし今までの試合を瞬殺で終わらせている一成なので、このままだと優勝してしまいそうだ。
やれやれ、応援に来るまでも無かったか。
と、義文はふうっと息を吐く。
そして一息ついて準々決勝が始まった。一成と対戦相手が出てくる。
試合開始の合図がかかるが、お互い出方を見てるのか動こうとしない。
ゆっくりと、じりじりとお互い円を描くように場内を歩いている。
そしてどうとも言い表せない叫びを出してお互い組かかる。
竹刀がクロスのように交差して、力強く押し合いしている。
お互いが後ろへ間合いを空けると、対戦相手はめぇん、と大きく声を張り上げ物凄い速さで
一成へ面を入れた。が、一成も素早くかわし、竹刀を肩に当てる。
そしてその隙に相手へ小手を入れた。
さすがに準々決勝となると今までの様にはいかないらしい。
そうこうしているうちに一成は胴を入れられる。
「一成ーーー!負けんじゃねーぞー!!」
思わず衝動に駆られて体が自然に動き、身を乗り出して大声で叫んでいた。
そんな義文を周りの学生達はびっくりしたように見ていた。
一成もびっくりして動きが一瞬止まった。
なに止まってんだよ!
と義文はわたわたするが、一成は一気に相手に面を入れて試合を終わらせた。
義文はほっとして力なく椅子へ座った。
試合が終わって礼をした一成は観客席の真ん中にある階段を上がって、義文の座っている席まで来た。
「義子ちゃん、来てくれたんだ」
女装している義文を嬉しそうに見つめ、一成は微笑んだ。
「あ、ああ…」
あまり一成に目を合わせないように返事をした。
試合場ではCブロックの試合が始まった。
県立武道館の剣道場は柔道と違い、学生は大半が男だった。
今の叫びで男たちの視線を一気に集めてしまった義文は美少女姿なのでかなり目立ち、
そしてそんな義文と話をしている一成に大勢の羨望の眼差しが刺さる。
少し居心地の悪くなった二人は控え室に寄ってロビーへと出た。
一成はロビーにある自動販売機に行き、どれがいい?と義文に振る。
どうやらジュースをご馳走してくれるらしい。
先ほど自分もジュースを買って飲んだのが、折角なのでご馳走してもらう事にした。
じゃあ、と義文は飲みたい缶ジュースに指をさした。
一成はお金を入れてその缶ジュースのボタンを押して、出てきたジュースを義文に渡した。
そして一成も自分の分も買って飲む。
「来てくれないかと思った」
ロビーの椅子に座り、缶ジュースの飲み口を見つめながら一成はしんみりと言う。
「約束したから…」
女装しているとかなり気まずい雰囲気の義文は、俯きながら声を押さえた。
「試合始まる前会場見たけどいなかったから、かなりしょげた。さっき応援してくれてすげー嬉しかった」
一成は嬉しそうに俯いている義文を見つめた。
そんな一成をちらりと見る義文。その顔はとても穏やかで、普段学校では見た事のない表情だ。
愛しい、という表情。
ああ、好きな人にはこんな顔するんだ…。
中身はクラスメートの男なのに、そんな自分にそんな表情を一成にさせているなんて、
なんて嫌な奴なんだろう。
義文は胸が痛む。
やはり早めに振ってしまうしかない。
「あのさ、よかったら今日折角来てくれたし、一緒に帰らない?」
どう一成を振るか考えていると、一成が先手を打ってきた。
「え」
試合が終わったら気づかれずにさっさと姿をくらませようと思っていた義文は、一緒に帰ろう
という一成の言葉に戸惑う。
「でも、部活の人と帰らなきゃいけないんじゃないのか?」
「子供じゃないんだから試合が終わったら自由解散だよ。帰りに美味しいクレープ屋あるから行こう」
一成は嫌味の無いさわやかな笑顔で言う。
その表情が義文を暗い気持ちにさせているのとは知らずに。
ここではいと言ってしまえば、またずるずると一成の強引さに引きずられてこの関係が続いて
しまいそうだ。
しかし義文は甘党なので美味しいクレープ屋に連れて行ってくれるのはかなり魅力的だ。
いや、そういう問題ではない。これも女の子を惑わす甘い罠なのだ。〔義文は男だが〕
一成は義文をじっと見つめて返事を待っている。
どうしよう、どうしよう。
しかしこの県立武道館のロビーで一成を振るのは気が引ける。
しかも一成はこの後に試合を控えている。
「じゃあ、試合終わったらここで待ってる」
振るのは今でなくても後でよい。義文は一成と一緒に帰ることにした。
「本当!?じゃあ試合が終わったらすぐ行くから!」
一成は嬉しそうに立ち上がる。
そろそろ道場へ向かうのか廊下を見ている。義文も試合の続きを見ようと立ち上がり、
一成と剣道場へ続く廊下を歩いた。
と、一成は気づいたように義文へ向く。
「この間の格好もかわいかったけど、今日も凄くかわいいよ」
一成の口から出た言葉に絶句。
相変わらずどこからそんな歯の浮きすぎる言葉が出てくるのか。
相手を義文だと知らずに。
そうか?と言い返したい所だが、今はありがとうと言うしかない。
「あ、ありがとう…。うれしい」
最後は棒読みになってしまった。
一成は相変わらずさわやかでくすぐったそうに笑っている。
剣道場に入ると一成を探していたのか星陵高校の剣道部員がこちらに駆け寄ってきた。
良く見たら一成といつも一緒にいるクラスメートの岡野だった。
一成と同様にあまりしゃべらないので印象が薄かったのだ。
義文は条件反射で道場の各所にある支柱に隠れた。
幸いにも一成に気を取られていた岡野は義文には気づいていなかった。
一成は岡野に連れられて、星陵高校剣道部が集まっている道場の端へと行ってしまった。
ほっと息をついて観客席へと着く。
愛は勝つ、というのか、その後の一成は物凄い勢いで今日の試合の勝利をかっさらっていった。
試合場の中央で偉そうな白髪のおじさんに優勝杯を貰っている。
観客席に向き直った一成とその上位三名。
その時になんとなく一成と目が合ってしまった。
こちらを見てにっと笑う。まるで君のために優勝をしたんだと言わんばかりに。まったくやれやれだ。
日新杯の閉会式が終わり、義文はロビーで一成が来るのを待つ。
しばらくして一成が息を切らせて走って来た。
「待たせてごめん、行こうか」
当たり前なのだが日曜といえど学校管轄の試合なので、一成は制服を来ている。
義文は私服で、しかも渋谷ギャル系の格好。なんとなく一緒に歩く二人のバランスが悪い。
県立武道館を出て駅へ行き、二人は電車に乗って桜木町へ向かう。
電車に揺られている間、二人は月曜日の部活見学の帰りのように他愛のない話をした。
どんな食べ物が好きか、普段どんなテレビ番組を見ているのかなど。
長い時間電車に乗っていたが幸い義文にとって不都合になる話題は出てこなかった。
そして学校で吉田と土屋、一成と四人で話している時みたいに楽しかった。
一成はいつも物腰がやわらかく、どんな話でも微笑みながら聞いてくれる。そして笑ってくれる。
話す方はとても話しやすい。
沈黙が続いても何か話さなきゃ、という雰囲気は全く無い。
女装をしている時は居心地が悪いが、普段はなぜか側で話していると落ち着いてしまう。
そんな友達は今までで初めてなのだ。
今日話を着ければその関係は壊れてしまうだろう。一成との関係を壊したくない。
女装している事をばらすわけではないので知らないフリをしていれば大丈夫なのだろうが、
義文自身そんなに軽く割り切れない。
今でこそ大事な友達になってしまったので割り切りたくないのだ。
そんな事をぼうっと考えていると目的の駅に着いてしまった。
とにかく、クレープを食べて落ち着いてから話を着けよう。
義文と一成は電車を降りて駅近くのビルに入った。
ビルの中は飲食店がたくさん入っており、義文は一成についてクレープ屋のある地下に行った。
「うわぁ~、うまそう!」
お祭り以外にクレープなど食べない義文は数あるクレープのメニューに目を輝かせる。
お祭りの屋台のオーソドックスなクレープしか知らないのでまさにカルチャーショックだ。
「好きなの選んでいいよ」
どれにしようか真剣に悩んでいる義文に一成はくすくす笑う。
「え…買ってくれるのか!?」
メニューにあるクレープはかなりいい値段がする。
勢い義文は一成へ振り返った。
「じゃなきゃ誘わないよ」
やはりくすくせと笑う。
「ええ~と、じゃあアイスとチョコのやつ」
義文はメニューに指を指す。
一成はわかった、と鞄から財布を出して店員に注文した。
三分ほどしてクレープは出来上がり、店員からクレープを受け取った一成はそれを義文に渡す。
「はい」
「サンキュー!すげーうまそう~」
一成から手渡された美味しそうなクレープに思わず顔を綻ばせる。
店内に座って食べる椅子があるのだが、椅子は女の子達に占領されていた。
「折角だから海が見える所に行こうか。そこにベンチがあるし」
「………」
ぱくっと一口クレープを口に含んだ義文は一成の申し出に少し考えてからこくりと頷いた。
一成が行こうと言ってきた場所は有名なデートスポットで、夜になって暗くなると一人では
歩けなくなるような場所だ。
クレープを買ってもらって、ベンチへ行って話をする…。まるでデートだ。
それでも話をしなければいけない。クレープも落ち着いて食べたいので仕方がない。
二人はビルを出て海岸沿いの公園へ向かった。
海岸沿いの公園は有名なデートスポットである前に、有名な観光名所でもあるので日曜日の
午後は人で混雑していた。
公園についた義文と一成は空いているベンチを探す。しかしベンチはすでにカップルや
家族連れで一杯で座れる所は無い。
海岸沿いの公園は海側と道路側の二つの歩道があり、二つの歩道は段差になっている。
その段差を結ぶ階段に座る事にした。
階段はベンチのすぐ近くなので海がよく見える。
海の潮臭さをよそに階段に座ってクレープをぱくつく義文。
一成は何かを考えているのか海を見つめている。
空は夕日で綺麗なオレンジ色に染まり、夏の予感を思わせる。
しばらくして義文がクレープを食べ終わる頃、一成が口を開く。
「義子ちゃん…、」
「何?」
最後の一口を口に入れて一成へ向く。
この後に話をきり出そうと。
「俺、バンドやってるんだ。月末にライブがあるからぜひ義子ちゃんに見に来てもらいたいんだ」
「……!」
義文はむぐっとクレープを喉に詰まらせる。それを何とか飲み込む。
「…何で…お、わ、私に…?」
相変わらず俺、と言いそうになるが義文は暗い表情で俯く。
そう、何で義子にだけなのか。
一成がでる高校生アマチュアバンド大会の全国大会には誘われこそしたが、月末のライブは
友達になった自分や吉田、土屋は誘われてない。
義子には誘うんだ…。
義子に対する嫉妬心が少しばかり芽生える。義子は自分だが、しかし一成にとっては別人で、
義文も一緒にしたくはない。
自分であり、違う人物でもある。
一成はライブに義子だけに来て欲しいから誘ってきた。義文にではなく、義子に。
しかし義子は義文で。
義子に対する嫉妬心と一成を騙している罪悪感で心がぐちゃぐちゃになる。
好きな女の子にアタックするのは十分同じ男として分かるのだが、男友達に接する一成、
女に接する一成を知る義文にとっては、友達として自分らにも月末のライブを誘って欲しかったのだ。
「義子ちゃん…?」
暗い表情で俯いている義文に一成は心配そうに覗きこむ。
どうしよう、何か返事をしなきゃ。
いや、断らなければならない。そしてもう二度と会わないと。
そう思うが口が思うように開かない。
言い出せない意思の弱い自分。
そして月末のライブに興味もある自分。嫉妬心、罪悪感。
もう何もかも心はがんじ絡めで目茶苦茶だ。
(どうしたらいい?)
一成は返事を待っている。
悩む。そしてこの場から逃げたしたい。けれど常識を持つ人としてそれは出来ない。
断るか、ライブに行くか、どちらかだ。
「…わかった、行く…」
「本当!?っしゃー!すげー嬉しい!」
「………」
義文の口から思わずOKの返事が。自然と出てしまったのだ゛
開き直ってしまうと、女装はばれていないし、一成を振るのはいつでもいいわけで。
と、その時一成は義文の肩を手で掴み、自分の方へ向かせた。
何も考えずに義文は一成を見る。
するとどんどん一成の顔が近くなってくる。
夕日で一成の髪の毛はオレンジ色に染まっている。とても綺麗なオレンジ色。
そんな彼は不思議とかっこよく見えてしまう。
顔はどんどん近づいてくる。
そして止まった場所は自分の唇。
義文は目を見開く。
その先には剣道の強い、ミュージシャンを目指す端正なクラスメートの顔があった。
「………!!!」
そう、一成にキスをされているのだ、義文の頬に手を添えて。
唇がくっつくだけの軽いキス。
ファーストキスは当たり前に女の子だと思っていた義文は、あまりの衝撃的な出来事にしばらく
頭が働かなかった。
唇を離し、一成はうっとりと義文を見つめる。
「いきなりキスしてごめん。でも、キスしたいくらい義子ちゃんが好きになったんだ」
現実からかなりの距離に遠ざかっていた義文は不幸にも一成の声によって現実に引き戻された。
「好きなんだ!」
そう言って一成は義文を抱き締める。
もはや人の目など気にしていないらしい。
「……っ」
義文はもう言葉が口から出てこない。今更何を言うのか、何を言っていいのかも分からない。
抱き締める一成を力一杯押しのけて、義文は逃げ出した。
走って、とにかく走って。
どうやって家に辿り着いたのか分からなかったが、気づいたら家の門の前まで来ていた。
もう心がぐちゃぐちゃだ…。
「バチが当たったんだ…」
これはライブが終わるまで、一成を騙し続ける事にした自分への報いなのか…。
「男にキスされちゃったよ……っ」
涙が込み上げてくる。
しかし涙はこぼれてこなかった。
すぐさま家に入ると義文は脱衣所に向かい、服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。そして
一成には悪いが唇を石鹸をつけて一生懸命洗う。
そんな事をしても男にファーストキスを奪われた事実は拭えないのだが。
唇にはやわらかい一成の唇の感触がまだ残っている。
明日はどうなるのだろう…。
義文はシャワーの水を出しながらタイルの上にへたりこんだ。

★すすむ★
★もどる★